●吉水園の歴史

 吉水園は江戸時代半ばの天明元年(1781)の春、加計隅屋16代当主の佐々木八右衛門正任が、この辺りの景観と地形に着目し、山荘として建設を思い立ったものです。(現在、加計隅屋24代当主の加計正弘氏所有)

 古記録によって建設の概要をみると、まず庭園拵えは同年9月17日から40日間を費やし、ついで翌天明2年8月には園池を前に入母屋造茅葺の吉水亭が落成しました。

 同年12月には、たたらの神様金屋子社も建立。隅屋は江戸期を通じて中国地方でも最大手のたたら鉄山師であり、その繁栄祈願のため出雲国比田から勧請しました。今上の段に琴平社、稲荷社とともに一宇に覆われています。なお金屋子神社境内には加計隅屋500年祭の碑があります。

▲松林庵薬師堂
 また、翌天明3年の正月に松林庵薬師堂が落成しました。その後、天明8年(1788)から文化4年(1807)に至る20年間に京都の庭園師 清水七郎右衛門の手によって、三度にわたる改造修理が行われました。清水七郎右衛門は、浅野家泉邸(縮景園)の改修も手懸けており、造園の大家であったといわれています。

 しかし、そもそも吉水園の作庭は、池ヶ迫と呼ばれた一帯の山と池をそのままとり込み、池(玉壷池)の構えを大きくするため堤を築き、南に面して亭を置くという、その基本の配置趣向のなかに非凡なものがみてとれます。

 吉水園は、廻遊式の庭園ですが、あきらかに吉水亭からの遠望を意図しており、薬師堂の森を右にして、前方はるかに太田川と山並みを見渡す中二階(高間)からの眺望(借景)は、本園観賞のポイントとなっています。

 また、亭内には「吉水亭」(永平寺竹広大禅師筆)をはじめ「遊戯海」(荻生徂徠筆)、「敲月」(厚宅筆)の額が掲げられており、雨戸上部の欄間には菊水・水車・水仙の透彫、物入の細長い扉には紅葉狩の大和絵を見ることができます。

▲冬の吉水亭
 昔から、吉水園に来遊した著名な文人墨客は少なくありません。文化4年(1807)には広島藩主浅野斉賢が従者400人を率いて来園、庭内を遊歩し、文久元年(1861)には同藩主浅野長訓が高間にて休憩し、鳥居前から松林庵薬師堂を経て庭内を廻遊しました。

 また、近年では俳人の河東碧梧桐、山口誓子、鷹羽狩行、児童文学作家の坪田譲治、ノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹夫妻、洋画家の岸田劉生、日本画の巨匠・東山魁夷夫妻、第56・57代内閣総理大臣の岸信介が来園しています。
 昭和26年(1951)県名勝の指定を受けました。


●鈴木三重吉と吉水園

▲鈴木三重吉「山彦」文学碑
 明治39年(1906)、作家の鈴木三重吉は同じ夏目漱石門下であった親友の加計正文(隅屋22代)を訪れ、初秋の日々をほぼ1週間吉水亭に滞在、ここで得た題材を構想して、名作「山彦」を書きました。

 その書出しには、「城下見にゆこ十三里、炭積んで行こ十三里、と小唄に謡うという十三里を、城下の泊りからとぼとぼと、三里は雨に濡れてきた。」とあります。
 なお、園入口に文学碑があります。




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